《 良寛堂を背に佐渡に向かう良寛座像 》                                                                「山下清には新潟に関する作品が多い」と前回書いたのですが、実は清の両親は共に新潟県出身でした。清は放浪中の昭和27年、長岡の花火より盛大だという信濃川の川開き(新潟市)に行き、日本一の三尺玉の花火(当時)を見物しています。その前後二回にわたり、母のふるさと佐渡島を訪ねました。最初は新潟市から、川開き後は新潟市から寺泊(てらどまり)まで歩き、佐渡航路の人となりました。〈文責:校長〉撮影2008.5.5  ※山下清「日本ぶらりぶらり」ちくま文庫参照                                                                                                                                ぶらりぶらり佐渡へ乗り込む赤とんぼ  玉                                                                                               「日本ぶらりぶらり」「ヨーロッパぶらりぶらり」はおすすめ。寺泊は近年“魚のアメ横”として有名である。                                                                      たらちねの母が形見と朝夕に佐渡の島べをうち見つるかも  良寛                                                              (やさしかった母が残した形見と思って朝に夕に佐渡島をながめたことよ)                                                                                                             越後(新潟)から備中玉島の円通寺に入って四年目に、良寛の母秀子が四十九歳で死去している。この時、良寛は二十六歳。三十九歳で越後に帰った良寛さんは、母のふるさと佐渡島(さどがしま)を、母の形見として朝夕眺めました。そして、今も生地に建つ座像の先には佐渡島が横たわっている。 ※水上勉「良寛を歩く 一休を歩く」NHK出版参照                                                                                                                                                                                                                                     荒海や佐渡に横たふ天の河  松尾芭蕉                                                                                                      奥の細道には、『七月三日弥彦大明神に参詣、七月四日 快晴、風あり。西生寺から野積を経て午後四時前出雲崎着、泊』とある。そして良寛の生地出雲崎で「奥の細道」中の傑作が生まれた。良寛は芭蕉よりも百年あまり後の人である。この句を愛誦(あいしょう)していたかも知れぬ。                                                                                                佐渡ケ島夏めきし天つ日のひかり  一碧楼  ※天つ日…太陽、日輪                                                              佐渡は流刑の地であり、金山の地であった。たらい舟で佐渡海峡を渡ることは難しい。