《国上山から望む越後平野…写真中央から右斜め一直線に分水路が海まで走る》 良寛さんといえば子どもと鞠(まり)をついているイメージが強い。良寛さんの遊んだ子どもたちは、おもに出雲崎、寺泊、地蔵堂(のち分水町)の子どもたちである。この地域は、信濃川の氾濫に苦しめられ続けた地域である。生活に困り、「人買い」に娘を売る家もあった。買われた娘は信州や上州の宿で飯盛り女として働き、病に倒れるものも多かった。子どもたちの将来を思う良寛さんの鞠は、やさしくかなしい鞠(まり)である。今、良寛さんが国上山からながめた地蔵堂(のち分水町、現・燕市)の風景の中を、一直線に日本海まで信濃川放水路(大河津分水路)が走っている。明治に入り、のべ1000万人、13年の歳月をかけて完成したものである。〈文責:校長〉撮影2008.5.5 ※水上勉「良寛を歩く一休を歩く」NHK出版参照 この里に手まりつきつつ子どもらと遊ぶ春日は暮れずともよし 良寛 子どもたちの末を想い、一二三四五六七と数える良寛さまである。 さわぐ子のとる智恵はなし初ほたる 良寛 子どもを見る良寛さんのまなざしが感じられる句である。慈愛である。 童女に地がたしかなり菊はうすく咲きたり 一碧楼