〈写真〉左:乙島の山陽紡績工場跡地  右:校内中庭の冬紅葉(残るもみじ)                               ※クリックすると拡大します                                                                                                    玉島の冬景色二題である。左は乙島の山陽紡績工場跡。煉瓦塀が僅かに残るだけだが、明治14年に玉島紡績所として建設された、岡山県下で最初の紡績工場であった。のち倉紡、山陽防と社名を変え、平成14年に閉鎖された。最盛期には千人を軽く越える人々が働いていた。まさに、冬景色である。右は、校内の冬紅葉。年末になっても、枝先の葉は落ちずに風に揺られている。教室で補習を受ける生徒に、頑張れと言っているようである。〈文責:校長〉撮影12月24日                                           工女ら休む日とてなく早春の山の辺の湿つた     一碧楼                                                    女労働者枯草の匂ひ幾群となる                       一碧楼                                     一碧楼の若い頃の作品には社会的な句が多い。青春のなせる業(わざ)だけではない。大正時代には、複数の巨大な紡績工場が玉島にあった。東京を複雑な気持ちを持って離れた一碧楼の目に、句の如き世界観が展開するのは当然であろう。

夜学舎の昼の補講や帰り花    一碧楼                                    私の教師生活のスタートは、昼間・夜間三部制の定時制高校であった。ほとんどが繊維関係の工場で働く昼の生徒は、一週間おきに午前と午後が入れ替わる。学校に午前中来た日は、昼から夜10時頃まで働き、午後来る時は、朝の五時頃から働いた。 部活動も盛んだった。勉強もよくした。教師生活最初の授業でもらった似顔絵は、私の宝物だ。家庭訪問に、佐賀や対馬に行った。若い私は、人生を彼女たちから学んだ。玉商はかって定時制課程を併設していた。  

★中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう 1887~1946)…玉島勇崎出身の俳人。河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加。【広辞苑】に人名掲載。